1.「イソップ物語の謎」の謎

イソップ関連の情報を漁っていると、首を傾げてしまうようなものも、かなりあるのですが、その筆頭は、 何と言っても、五島勉氏の「イソップ物語の謎」という本でしょうか。  この本は、五島氏が独自にイソップ寓話を研究し、今まで知られていなかった、隠された予言的な意味 を発見し、それをまとめたものだそうです。  これを信じるか信じないかは、個人の自由ですので、筆者としては、とやかく言うつもりはありません が、唯、イソップ寓話そのものに手を加えて、何か意味ありげに見せるという手法には、異議を唱えるべ きでありましょう。  例えば、五島氏は次のような話を紹介しています。
話の原型(とくに太字の部分に注目を)   ある村はずれに、一人のヒツジ飼いの少年が住んでいた。この少年がある日、ヒツジの 番をしている最中に、突然「オオカミが来るぞ」と叫んだ。  近くにいた別のヒツジ飼いがこれを聞きつけ、村中に伝わって大騒ぎになった。 何人かの人は少年を助けに走った。ほかの人々はあわてて逃げたり、自分のヒツジを急い で避難させたりした。  しかし、オオカミはいくら待っても来なかった。「なんだウソか」と村人たちは少年に 腹を立てた。  だがそれから数日後、少年はまた「オオカミが来るぞ、ほんとに来るぞ」と叫んだ。  村人たちは、こんどもウソかもしれないとは思ったが、不安も感じ、いちおう逃げたり ヒツジを避難させたりした。  しかしこのときもオオカミは来なかった。 「やっぱりウソだ。あのガキは大ウソつきだ」と、村人たちは決定的に怒った。だが、そ れから数日後、少年は、またまた「オオカミが来るぞ、そこまで来てる。みんな気をつけ ろ」と叫んだ。  村人たちはそれを聞きつけたが、「またか、性懲りもねえガキだ。こんどこそダマされ ねえぞ」と、だれも逃げず、ヒツジも避難させなかった。  しかしそのとき、オオカミはほんとうに村はずれまで入ってきていた。そして少年が飼っ ているヒツジを襲って食べていた。 「食べられてる! ほんとにオオカミが来た! いま来てるんだ!」  少年は悲痛に叫びつづけたが、ついに一人の村人も信用せず、助けに来なかった。だか らオオカミは、とうとう少年自身にも飛びかかって食べてしまった。

この話を読んで、何かおかしいと感じた方もいらっしゃるかと思いますが、まあ、それはぐっと堪えて、 次の、五島氏の解釈をまずご覧下さい。
このオオカミ少年は、じつは誠実な予知能力者 「この話は、イソップの中でも最初に教える話です。向こうの幼稚園ではそうしています。 向こうの若いお母さん方も、子どもにイソップ物語を聞かせるときは、まずこの話から入る ようですね」  日本に長く住んでいる外国人の宣教師から、私は以前こう聞かされた。それほどこの話は、 世界的にポピュラーなメルヘンだ。意味はもちろん、「この少年のようにウソをつくな。ウ ソつきは最後に自分も破滅する」ということのようだ。  だが、じつは、こうしたいままでの解釈こそ、たいへんな間違いだったと私は思う。たし かに、オオカミが最後まで来なかったのなら、この少年は大ウソつき。  しかし、話を読み返すまでもなく、オオカミは少年の警告どおり、結局はちゃんと襲って きたではないか。  だから彼にミスがあったのなら、それはオオカミがまだ来ないうちに、「来るぞ」と、早 すぎる警告を出したことだった。だが、これも大切なことだったのではないか。村人たちは、 ほんとうはこの早めの警告をしっかり受け止めて、オオカミが来ても大丈夫な手を、早めに 打つべきじゃなかったのか。  というのは、古代ギリシャでは、「一度ヒツジの味を知ったオオカミは、それが忘れられ ず、また仲間を連れて襲ってくる」と言われていたからだ。 「一度人間の味を知ったオオカミは、もっと忘れられず、もっと多くの仲間を連れて、また、 必ず人間を食べにくる」とも。  これは机上の教訓ではなく、彼ら牧畜民族の実際の経験から割り出された知恵だったろう。 だからこの話でも、ヒツジと少年を食べたオオカミは、またすぐに仲間を連れて、こんどは 村人たちを食べに戻ってくる。  この恐ろしい結末が、わかる人にはわかるように伏せてあるのだ。ここからも、この話の ほんとうの意味は、「この少年のようにウソをつくな」ではなく、「この愚かで頑迷な村人 たちのように、将来の危機への真剣な警告をバカにするな。警告されたら、そうならないよ うな手をすぐ打て」だったのだ。 以下省略

  かなり長い引用になってしまいましたが、まず、些細な点から、疑問を呈したいと思います。  五島氏は、「この話は、イソップの中で最初に教える話です。向こうの幼稚園ではそうしています。向 こうの若いお母さん方も、・・・」と、言っていますが、向こうの幼稚園とは、どちらの幼稚園なのでし ょうか? 日本に長く住んでいる外国人の宣教師から聞いたと言っていますので、外国の幼稚園であるこ とは間違いないと思うのですが、果たして、フランスか? アメリカか? イギリスか? ブラジルか?  韓国か? フィリピンか? 全く分かりません。 まあ、どこかの国では、この話が最初に教えられるということは、信じることにしましょう。しかし、こ の「話の原型?」は、どうにも可笑しいのです。五島氏は、少年が、「オオカミが(来るぞ)」と叫んだ。 と、言っていますが、少なくとも筆者の知っている話ではどれも、「オオカミが(来たぞ)」又は、「オオ カミだ!オオカミだ!」という具合に叫んでいるのです。 つまり、五島氏は、本来は、「オオカミが(来たぞ)」という現在形(現在完了と言うべきか?) のセリ フを、「オオカミが(来るぞ)」と未来形にすることで、嘘つきの少年を、まんまと、誠実な予知能力者に 仕立て上げてしまったのです。これはどう見ても、話のすり替えです。 そして、少し穿った見方をしますと、(とくに太字の部分に注目を)というのがどうにも怪しいのです。 「オオカミが来るぞ」や「ほんとに来るぞ」と言う具合に、「来るぞ」という箇所の前をわざわざ、太字 にするこで、「来るぞ」という部分から注意を反らさせようとしているのではないのか?  そんな疑問がわいてきます。(もし、仮にこの話が、予言の書ならば、「来るぞ」の方を太字にするのが 自然ではないでしょうか?) それに、もし本当にこの少年が、予言的なニアンスを含んだ未来形で、「オオカミが来るぞ」と、言って いるとするならば、村人たちは、少年を「嘘つき」とは思わずに、「ちょっとイカレタ少年」と考えるこ とでしょうから、少年が、同じことを繰り返せば、 『「やっぱりウソだ。あのガキは大ウソつきだ」と、村人たちは決定的に怒った。』ではなく、 『「やっぱりイカレテル。あのガキは大××だ」と・・・』と、いう具合になるはずで、話の構成上から 言っても、この解釈は成り立たないのです。 また、五島氏は、  『この話のほんとうの意味は、「この少年のようにウソをつくな」ではなく、「この愚かで頑迷な村人た ちのように、将来の危機への真剣な警告をバカにするな。警告されたら、そうならないような手をすぐ打 て」だったのだ。』 と、言っていますが、村人たちは、少年の「警告?」に対して、二度までも羊を避難させたりしているの ですから、決して愚かでも、頑迷でもなかったと言えます。  それよりも、少年はオオカミが来ることを知っていたのに、羊の群と共に、むざむざと食われてしまう のですから、この少年の方がよっぽど、どうかしているのではないでしょうか。恐らく、村人たちは、事 の顛末を知り、何らかの対策を打ったのは間違いないでしょう。 ところで、そもそも、この原典の題名は、「悪戯をする羊飼」というもので、話の内容も、羊飼いが、 「狼が羊を襲っている!」と嘘を言って、村人が慌てるのを見て喜ぶという話ですから、五島氏の改変は、 無理の無理通しとしか言いようがありません。(五島氏は、当然原典を知っていると思われますので、こ れは、相当に悪質ではないでしょうか?) 更に付け加えますと、筆者の調べたところ、原典をはじめ、シュタインヘーヴェル版、タウンゼント版、 チャーリス・ティキニー版など、外国のイソップ寓話のこの結末は、「羊が食べられる」だけで、「羊飼 いの少年が食べられる」というような記述は見られません。  ところが、日本で翻訳されているものには、「羊飼いの少年が食べられる」というような結末が数多く 見られます。ですからこれは、日本的変容の顕著な例と言えるかもしれません。 また、イソップ寓話には、羊がオオカミに食べられてしまうという話は、数多くあるのですが、人間が、 オオカミに食べられてしまうという話は、一つもないということも付け加えておきたいと思います。 それにしても、五島氏は、「嘘をつく羊飼い」の話をこのように改変してしまうのですから、なかなか食 えない人物ではあります。

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