熊の敷石


第百二十四回芥川賞受賞作品は、堀江敏幸氏の『熊の敷石』でした。

話の内容は、フランス留学の経験のある日本人の「私」が、フランスを再び

訪れて、小さな田舎町で旧友と再会するという話です。ここでは胸躍るような

冒険や恋愛があるわけではなく、友人とのごく普通の会話が続きます。

しかし、この友人はユダヤ人で、日本人の「私」が何気なく発する言葉一つ

一つが、友人の深い部分を突き刺すようです。そしてこの日本人の「私」は、

ラ・フォンテーヌの『寓話』を読むことになります。


人間はもちろん、どんな動物も近寄らないへんぴな山奥に、一頭の熊が

住んでいた。しかしさすがの熊も、話し相手のいない孤独な生活が疎ましく

なってきた。一方、そこからほど遠からぬところに園芸好きな老人が独り暮ら

しをしていて、物言わぬ花だけが欲しい。そう思って老人が外へ出ると、おなじ

ように退屈して山から下りてきた熊にばったりでくわした。恐怖に身の竦む思

いを味わいながらも老人は熊を自宅に招き、料理を振る舞う。意気投合した

彼らはいっしょに暮らしはじめ、熊は狩りに出かけ、老人は庭仕事に精を出し

た。ただし、熊のいちばん大切な仕事は、老人が昼寝をしているあいだ、わず

らわしい蠅を追い払うことだった。ある日、熟睡している老人の鼻先に一匹の

蠅がとまり、なにをどうやっても追い払うことができなかった「忠実な蠅追い」

は、ぜったいに捕まえてやると言うか言わぬか、「敷石をひとつ掴むと、それ

を思い切り投げつけ」、蠅もろとも老人の頭をかち割ってしまったのである。

 かくして、推論は苦手でもすぐれた投げ手である熊は、

 老人をその場で即死させたのだ。

 無知な友人ほど危険なものはない。

 賢い敵のほうが、ずっとましである。

(熊の敷石 堀江敏幸)


 この寓話を読んだ「私」は、自分は友人にとって、この熊のようなものだったのでは

ないのか? と自問します。

と、いうような話なのですが、ここでラ・フォンテーヌの寓話が出て来たのは、日本人

の「私」には、容易には窺い知ることができないであろう、フランスのユダヤ人問題な

どを、フランスの魂ともいえる「寓話」で言い表そうとしたのかもしれません。

この寓話を読んだ、主人公の「私」は、ラ・フォンテーヌは、どうやってこの残酷な寓話

を発想したのだろうか? と訝しがるのですが・・・さて、当HPでは、ここからが本題

です。

実はこの話は、ラ・フォンテーヌが考え出したものではありません。この寓話の起源は、

インドの仏教説話のジャータカであり、それが、パンチャタントラに取り入れられ、更に

それをラ・フォンテーヌが翻案したものです。

そこで、まず、ジャータカを見てみたいと思います。


Makasa Jataka

大工の銅鉢のような頭に蚊がとまったので、子供に払いのけるよう命じた。

子供は斧をとり、蚊を打とうとしたがその結果は大変な事となった。

常軌を逸した友人よりも、賢い敵の方がよい。父親の頭の蚊を殺すために、

馬鹿な息子は、父親の頭を叩き割った。

------------------------------------------------------------

Rohini Jataka

娘は、母親を刺したアブを殺そうとして、杵で母親を打ち殺した。

親切な馬鹿よりも、分別のある敵のほうがよい。あの馬鹿な娘を見よ。

彼女は母親を殺し、涙を流して悲しんでいる。


次にパンチャタントラを見てみます。


パンチャタントラ1.22『猿と王様・泥棒とバラモン』

1.417
敵でも賢者の方がよい、愚者を味方にするな。王は猿に殺され、バラモンは盗賊に守られた。

猿が、ある王様のため非常に奉仕に熱中して、王様の体の世話をし、後宮においてもどこ

にでも出入りして、大変信頼されていた。ある時、王様が眠っている時、猿が団扇をもって風

を送っていると、王様の胸の上に蝿がとまった。団扇でくりかえし追い払ったが、何度もそこに

やってきた。生まれつき軽佻で愚かな猿は怒って刀を取ると、その蝿の上に一撃をくわえた。

すると蝿は飛んでいったが、その鋭い刃で王様の胸は両断されて死んだ。

 それ故長寿を望む人にとって、愚かな従者は守護にならない。

(パンチャタントラ 田中於莵弥・上村勝彦訳 大日本絵画)


この話の次には、「賢い敵の方がよい」ということを示す話が続いています。

ラ・フォンテーヌが参照したパンチャタントラでは、実際に、どのような話になっていたのかは、

筆者には分かりませんが、「刀」と「敷石」、「猿」と「熊」と随分と違っています。猿は軽薄であっ

ても、愚鈍とは言わないでしょうし、熊は愚鈍であっても、軽薄とは言わないと思います。

 では、これらを変容させたのは、ラ・フォンテーヌか? と言うと、そうではないようです。

ストラパローラの『楽しい夜』では、間抜けな召使が、主人の頭に止まっていたハエを殺そ

うとして、殴り殺す。という話になっているそうです。うすのろの召使と、熊とはキャラクターが似

ているように思えます。

どうやら、ラ・フォンテーヌなどが参照した、パンチャタントラ(Bidpi, or Pilpay) 自体が、ずてに

「熊」となっていたようです。

 ところで、ストラパローラでは、うすのろの召使は、主人を殴り殺しているのですが、

Aarne, A. & Thompson, S.の分類でも 163A* の、「熊が主人を殴り殺す」というタイプと、

1586Aの「熊が重い石で主人を殺す」という二つのタイプが収められています。

 そういえば、「熊の敷石」でも、主人公の「私」は、

 石を投げつけずにその強靭な腕で振り払ったとしても、力ない老人を殴り殺すことになってい

たかもしれないのだが。

と、独白しているのですが、もしかすると、作者の堀江氏は、このことをちゃんと知っていて、主人

公の「私」にこんなことを語らせたのかも知れません。更に、もう少し穏やかな熊もいます。


Ernest p380『隠者と熊』

ある隠者が熊の世話を大変よくしていた。熊は隠者から恩恵を受けていることをよく知っていたので

大変感謝し、彼の独り住まいの、後見人として、そして友人として認めてもらおうと願った。隠者は熊

の申し出を快諾すると、熊を自分の住まいへと招き入れた。そこで彼等仲良く共に暮らした。ある暑

い日、隠者が眠っていると、お節介な熊は、彼の友達の顔にたかるハエを追い払う仕事を買って出

た。しかし、彼の努力にも係わらず、一匹のハエは、絶えず攻撃をしかけた。そして遂に、隠者の鼻

にとまった。

「よし、お前を必ずやっつけてやるぞ」熊はそう言うと、脳味噌を振り絞って最善の方策を考えた。そし

て、隠者の鼻に、激烈な一撃を喰らわせた。こうして、ハエは間違いなく撃退された。しかし、同時に彼

は恩人の鼻をびじゃりと潰した。

  よくあることだが、軽率な友は、その大いなる熱意によって、最悪な敵が悪意をもってなそうとする

害をもたらす。


この話は、ラ・フォンテーヌからの翻案なのですが、鼻を潰すくらいならば、痛そうではありますが、愛嬌

があります。

更にこの話の類話を見てみたいと思います。


サキャ格言集 120 今枝由郎訳 岩波文庫

立派な人は喧嘩になってもためになり/劣った人は親切にしても害がある。

/神々は怒っても衆生を守り/閻魔は笑っても人を殺す。(2003/1/23追加)


ペリー711『牡ヒツジと禿頭の主人』

その牡ヒツジは、円盤を頭突きして遊ぶようにと主人に訓練されていた。ある日のこと、禿頭の

主人は、たらふく酒を飲んで、カツラを外して庭で眠りこけていた。牡ヒツジはこれを見て、主人が、

円盤を頭突きをして遊ぶようにと誘っているのだと思った。そこで牡ヒツジは主人の頭を頭突きし

て殺した。


恐らくこれらの話は、パンチャタントラの影響を受けているのだと思います。更に、頭を叩く話として、

パエドルスの寓話を見てみたいと思います。


タウンゼント306.禿頭とアブ (パエドルス5.3)

 アブが禿頭に噛みついた。男はアブを殺そうと、ピシャリと頭を叩いた。しかし、アブはさっ

とよけると嘲るように言った。

「小さな虫が刺しただけなのに、あんたは命を奪おうと、とんだ復讐劇を企てて、自分で自分を

痛めた日にゃどうするんだい?」

 すると男はこう言い返した。

「自分自身と和解するのは簡単なことだ。わざと痛めつけようとしたのではないことは承知して

いるからな。だが、たとえ痛い思いをしたとしても、お前のような、人の血を吸って喜ぶような

不快で下劣な虫けらを、私はゆるしておけないのだ」

Pe525 Ph5.3 Cax2.12 Hou18 <Laf8.10> <Kur4.11> <J.index151> <Panca1.22> TMI.J2102.3
<KHM58> <今昔物語26-19> (Ph)


パンチャタントラ系の話とパエドルス系の話は、よく似ているので、両者には何か関係があるの

ではないか? と、言われることもあるようなのですが、しかし、パイドルスの話では、主人公は

相手にたかったアブを叩いているのではなく、自分にたかったアブを叩きそこなっているのです。

しかも、主人公は間抜けとしては描かれておらず、アブが悪として描かれています。それに、こ

のような話は、特殊な話というわけではなく、かなり普遍的なように思えます。

例えば、田河水泡の「のらくろ」という漫画に、こんな話があったように記憶しています。

のらくろが、上官の頬をピシャリと叩く。上官が、「何をするか!」と怒鳴ると、のらくろは、

頬に蚊が止まっていたのです。と言って、手を開いて見せると、それは蝿であった。

(子供の頃に読んだもので、きちんと調べなおしておりません。)

恐らくこの話を読んで、「田河水泡は、パンチャタントラから話を取り入れたのだ!」と考え

る人はあまりいないと思います。「蚊もろとも相手の顔を叩く」あるいは「蚊を叩き損ねる」

というような話は、普遍的な笑いの種のように思えます。

しかし次のような話はどうでしょうか?


Odo of Cheriton19『異端者と蝿』

トゥールーズあたりで、ある異端者が演壇に立って、神はこの世など造らなかった。つまり、神は

動物たちやこの世の物を造らなかったということだ。と演説したそうだ。そしてこう尋ねたそうだ。

「すばらしい神が、なぜ、汚らしい蠅をお造りになったのか?」

  すると、一匹の蠅が飛んできて、異端者の顔にとまってかぶりついた。異端者が蠅を打ち付け

ると、蠅は顔の別な部分にとまりなおした。そして、蠅は、異端者の顔の周りを、そこここと、執拗

に飛び回った。異端者は思わぬ苦しみに、軽率にも、自分自身に鋳物を振り落とした。そして粉々

に砕けた。

  ここで注視せねばならぬことは、神が蠅をお造りになったということを、蠅自身が如何にして証

明し、そして、創造主へ向けられた故なき誹りをいかにして正したか? ということである。


この話では、ハエを追い払おうとして、自分自身を叩くという点では、パエドルス系統の話と同じなの

ですが、主人公は間抜けな者として描かれており、自分自身に鋳物を振り落として死んでしまうという

点では、パンチャタントラ系統と同じです。Odo of Cheriton の他の寓話を見ると明らかにパンチャ

タントラから採られたと思われる話が幾つか見られます。そして、Odoは、パエドルス系統の寓話

も知っていましたから、彼は、両者の話をうまく組み合わせたのではないかと思えるのです。

古活字版「伊曽保物語」(下34)『出家と盗人の事』と、Odo of Cheriton 『罪人のために聖者は祈る』 参照

 次に日本の話について見てみたいと思います。


昔話インデックス0151『運定め---虻に手斧』

六部が神社に泊まっていると、立ち寄ったよその神様がお産に立ちあったあと、

今夜生まれた子の寿命は十五歳で虻に手斧で死ぬ、とそこの神様に話して去る。

六部が十五年後にその家を訪れると、桶屋になったその子は虻を手斧で払いあ

やまって傷つき死んでいる。

(日本昔話通観 28 昔話タイプインデックス 稲田浩二 同朋舎)


自分で自分を傷つけると言う点では、パエドルスに近いように思えます。しかし、この話で

は、主人公は間抜けだから死ぬのではなく、運命のために死にます。この定めによる死

という話は今昔物語26.19『東に下る者、人の家に宿りて産にあひし語』に見られます。

話の粗筋は次のようなものです。


 東へと旅をしていた人が、日が暮れて、ある家に厄介になった。その夜、その家で

子供が生まれる。すると、この旅人の部屋のすぐ傍の戸から、背丈八尺もある大男

が内から外へ出て、世にも恐ろしい声で、「年は八歳命は自害」と言う。旅人は、一

体何者だろうと訝しがるが、暗くて何も見えず、家の人にもこのことを語らずに、明け

方にこの家を後にした。

 それから九年して、この旅人がまた、この家を訪れて、「前に来た時の子供は、どうした

か?」と尋ねると、家の者は、「去年のその月のその日に、高い木に登って、枝を鎌で切

っていて、木から落ちて、その鎌に頭を刺して死んでしまった」と語る。

 旅人は、あの夜のことを思い出し、あれは鬼神だったのだと思い、「あの時に、しかじか

のことがあったが、何のことか分からなかったので、家の人たちに言わなかったが、

あの鬼神はそのことを言っていたのか」と言うと、家の者は泣き悲しんだ。

 運命は生まれた時から決まっている。


 この話には、虻を追い払うというモチーフは含まれていません。更に、この今昔物語の種

本は、中国の、捜神記19.448『運命の神』という話のようです。


男が友人の家へ行くと、その日、子供が生まれる。男が部屋にいると、外でなにや

ら声がする。

「部屋に誰かいるから入れない」「では裏口から入ろう」「寿命はいくつとなっている」

「十五歳」「死因は?」「刃物」

 この話を聞いた男は、主に、自分は人相を見ることが出来ると言って、子供を見て、

「刃物で災いをうける相が出ている」

 と注意を促す。親たちは、それは大変とばかり、子供に刃物を持たせないようにと

気をつける。しかし、15年後、誰かが梁の上にノミを置く。子供は刃が見えなかった

ので木片でも上がっているのだろうと、鉤をかけて引っ張る。そして、頭にノミを刺し

て死ぬ。

 運命は変えられない。


こちらの話では、今昔物語と違い、刃物が危ないと言って、主に注意を促し、家の者は

子供に刃物を持たせないように注意します。そして、年齢は15歳となっています。これ

は日本昔話と同じですから、ここからすると、日本の昔話は、今昔物語から直接出た

のではなく、より捜神記に近い話から出て、変容したように思えます。

 では、「虻を手斧で追い払う」というモチーフはどこから来ているのかというと、まあ、

パンチャタントラの影響と考えるのが妥当だと思いますが、パエドルス系統の影響を

受けている可能性も全く無いとは言い切れないと思います。16世紀から17世紀にかけ

て日本で出版された、『イソポのハブラス』や『伊曽保物語』には、この話は含まれてい

ませが、しかし、当時西洋で広く流布していた、シュタインヘーヴェル版にはこの話が

含まれていますので、宣教師が日本に持ち込んだイソップ寓話集にはこの話が含ま

れていた可能性は高いと思います。それは、宣教師の原本に「大山鳴動して鼠一匹」とい

う諺が入っていた可能性と同等であり、「兔と亀」が入っていた可能性よりも高いもの

です。

 ところで、捜神記の運命話と、よくにたイソップ寓話があります。


ペリー162 子供と烏

 母親がまだ口のきけない赤子のことを占ってもらったところ、占い師たちは、烏に殺

されるだろうと予言した。そこで怖くなった母親は、大きな箱を作って子供を閉じこめ、

烏に殺されぬよう用心することにした。そしていつも決まった時間に箱を開け、必要な

食物を与えていた。ある時、蓋を開け、そして閉めようとする瞬間、子供が不用意に外

を覗こうとした。こうして箱の烏鉤が脳天に落ちかかり、子供を殺してしまった。

 定められた運命には手出しできぬということを、この話は説き明かしている。

(イソップ寓話集 中務哲郎 岩波文庫)


 このように、予言を避けようとするが、結局避けられない。というような話は、ギリシア

神話など洋の東西を問わず数多くありますが、中には「取り越し苦労」をするという話も

あります。


グリム童話・KHM34『賢いエルゼ

前略

 母親が言いました。

「エルゼ、地下室へ行ってビールをくんできておくれ」

 賢いエルゼは壁からビールつぎをとると、地下室へと向かいました。そして、地下へ着

くまでの退屈しのぎに、その蓋を打ち鳴らしました。彼女は地下に着くと、身をかがめな

くともすむようにと椅子をとってビール樽の前に据えました。こうすれば、背中を痛めた

り、何か不意の怪我に見舞われることもありません。それから彼女は自分の前に、容器

を置き、樽の栓をひねりました。ビールが流れ出している間も、彼女は目を怠けさせては

おきません。彼女は壁を見上げると、そこやここと丹念に見回しました。そして、頭上に、

ツルハシがあるのを見つけました。それはレンガ職人がたまたまそこに置き忘れたもの

でした。

 賢いエルゼは泣きながらこう言いました。

「もし、私がハンスと結婚したら、子供が生まれるわ、そしてその子が大きくなったら、その

子にビールをくんでくるように言いつけるんだわ、すると、このツルハシがその子の頭に落

っこちて、殺してしまうのよ」


この話は、捜神記と大変よくにています。もしかすると、何らかのつながりがあるのかも知

れません。


H 2  あだち充 作  小学館 comics  18巻 P15

H2 18.15 監督の頬に蚊がとまる

(甲子園出場を果たしたことに、実感が持てない監督・・・・) 2004/03/03 追加


参照リンク

サカモト オデオン (ミノ !) (Shockwave FlashのPlug-in が必要です)

サントリー Boss のコマーシャル (浜崎あゆみ さんが、新郎の額に止まった蜂を・・・)

BACK


inserted by FC2 system