ルソーのラ・フォンテーヌ寓話批判の誤謬とイソップ寓話


ルソーは、晩年に著した教育論とも言うべき『エミール』という作品の中で、ラ・フォンテーヌの『寓話』

を幾つか取り上げて、批判しているのですが、この中で、『オオカミとイヌ』という寓話に対する、ルソー

の批判が、筆者には、どうにも腑に落ちないのです。

そこで今回は、この『オオカミとイヌ』という寓話について、ラ・フォンテーヌ版と、イソップ版とを比較

しながら、詳しく見てみたいと思います。

とりあえず、ルソーがこの作品をどのように批判しているのかを、見てみたいと思います。


 子どもが寓話を学んでいるのを注意して見ているがいい。それを実生活にあてはめて考え ることができるばあい、子どもはほとんどいつも作者の意向とは逆の考えかたをすること、 作者が改めさせようとしている、あるいは、もたせないようにしようとしている欠点につい て反省することはしないで、子どもは、他人の欠点から自分の利益をひきだすというような よからぬことを心がけるようになることがわかるだろう。 ・・・・省略  やせた狼と太った犬の寓話では、作者があたえようとしている節制の教訓ではなく、子ど もは気ままな生活態度を学ぶ。いつもおとなしくしなさいと教えられていた小さな女の子が この寓話を読まされて、ひどく悲しんで泣いていたのを見たことがあるが、わたしはそれを けっして忘れないだろう。なぜ泣いているのか、だれにもなかなかわからなかったが、やっ とそれがわかった。かわいそうに子どもはたえず束縛されていてやりきれなくなっていたの だ。その子は頸のあたりが首輪のためにすりきれているような感じがしていたのだ。自分が 狼のようになれないのを悲しんでいたのだ。 ・・・・省略  こういったわけで、右に引用した最初の寓話にふくまれる道徳は子どもにこのうえなく卑 しいへつらいを教え、つぎの寓話の道徳は情けしらずになることを教え、三番目のは不正を 教え、四番目のはあてこすりを、五番目のは不羈独立を教える。この最後の教訓はわたしの 生徒にとってはよけいなものだが、そうかといって、あなたがたの生徒にとってもふさわし いものとはいえない。 (岩波文庫 エミール 今野一雄訳) 注:五番目の「不羈独立を教える」というのが、『オオカミとイヌ』の寓話を指す。

 さて、次に、この寓話が、どのような話なのか、実際に見てみたいと思います。
ラ・フォンテーヌ寓話 オオカミとイヌ やせこけて ほねと皮ばかりのオオカミ イヌどもがぬけめなく番しているので・・・・・・      このオオカミ 毛なみよくつよそうな番犬にあう 肉づきもよく色つやのよい まいごの番犬 うちたおし八ざきにできるものなら よろこんでそうしただろうが それには たたかわなければならず みればこのイヌ 身のたけたかく いさましく むかってきそうなやつだった そこでオオカミ こしひくくイヌにちかづき ことばをかけて みごとなおとこっぷりだと おせじをつかった 「よう いろおとこどの おれのようになりたけりゃ おれについてきさえすりゃいい 森をでるんだ そうすりゃよくなる あそこじゃきみたち あわれなものさ くうやくわずで こじきとおなじ うえ死にしかねぬようすじゃないか なぜって きまったえさもなきゃ ただのめしにもありつけないもの くうがためにはスリルまんてん つなわたり ついておいでよ おれのところへ すこしはましなくらしをさせるぜ」 オオカミたずねて 「でもそのかわり なにをするんだ」 「たいしたことはしなくていいのさ つえつく人やこじきがきたら おいはらい 家の人にはしっぽをふって主人にごまする これでたんまり のこりものがちょうだいできる ニワトリのがらやハトのほね なでかわいがりは いうまでもなしさ」 オオカミはこのしあわせに なみだながしておおよろこび いそぐ道みち イヌの首のはげたすじみて 「こりゃなんだい」 「いやべつに・・・・・・」 「べつにってなにさ」 「ま ちょっとね・・・・・・」 「ねえおしえてくれよ」 「つながれている くびわのせいかな」 「つながれてるだって」とオオカミあわてて 「そう いつもはね でもたいしたことじゃないだろう」 「いやどうして たいしたことさ  ごちそうなんてまっぴらだ たからの山くれるといっても ごめんこうむる」 いうが早いかオオカミの大将にげたした すたこらさっさ (玉川大学出版部 川田靖子訳)
ルソーは、この寓話を「節制の教訓」と見なしているのですが、どうも筆者には、この寓話が「束縛され た豊かさよりも、自由がなにより」というような、正に「不羈独立」の話のように思えるのです。 残念ながら、ラ・フォンテーヌは、この寓話の文末に、教訓をつけていないので、ここからだけでは、事 の正否は判断できません。 そこで、この話に近いと思われる、イソップ寓話を見てみたいと思います。
犬と狼 犬が通りを歩いていると、お腹をすかせてやせこけた狼と、ばったり出会った。 「やあ、兄弟どうしたい?」犬は狼に声をかけると、こう言った。 「お前さんが、そんなに痩せこけているのは、荒んだ生活のせいだよ。そんなことをしていると、 すぐに、あの世行きだよ。全うな暮らしをしてみる気はないかい? 俺のようにきちんと働けば、 食べ物に事欠くことはないと思うがね。」 「ああ、君の言う通りかもしれないね。でも、俺を雇ってくれるところがあるのかい?」 「まあ、任せておけって、俺のご主人様に言って、仕事を分けて貰えるように取りはからってやるよ」 それから、犬と狼は、町へと向かった。 道すがら、狼は、犬の首の周りの毛が、すり切れていることに気がついた。狼は訝しく思い、犬にどう してそんな風になったのかと尋ねてみた。 「別に気にすることではないさ。」犬はそう言うと、こう続けた。 「夜の間、鎖に繋がれるから、それでちょっと、毛が擦れるだけだよ。でも、すぐに慣れるさ。」 「気にするないだって?・・・・冗談じゃない。俺は、まっぴら御免だね、じゃあおさらばだ、 犬の大将さん」 教訓:食うに困らぬ奴隷より、ひもじくとても、自由がなにより。 (Hanama訳) 原文はこちらです。                                                         
ラ・フォンテーヌは、ジャン・ボードワン(1590-1650)訳のイソップ寓話を参考にしたと言われていますが、 残念ながら、筆者は、この版を見たことがありません。しかし、恐らく、ジャン・ボードワン訳のイソップ 寓話は、先に上げたイソップ寓話に近いものであろうと思われます。 ですから、フォンテーヌ自身もこの寓話を、「束縛された豊かさよりも、自由がなにより」というような、 「不羈独立」の話と考えていたのではないかと思えるのです。少なくとも、本来のイソップ寓話ではそのよ うな話であったことは間違いありません。 と、すると、ルソーの批判はどうなってしまうのでしょうか? 子どもに「束縛された豊かさよりも、自由 がなにより」という話を読ませておいて、「節制の教訓を学」ばずに「不羈独立」を学ぶと批判しているの です。これにはイソップも、天国で苦笑いしていたかもしれません。 さて、それではさらに、イソップ寓話の原典ではどうなっていたのかを、見てみたいと思います。
   二二六 狼と犬 狼が首輪をはめられている非常に大きな犬を見て「誰が君をしばってこんなに育て上げたのかね。」と尋ね ました。と、犬は「猟師だしかし僕の愛する狼がこんな目に遇わないように。というのは首輪の重さだけお 腹が空くんだから。」と言いました。 この話は、不幸の折には決してお腹が一杯になるものではない、ということを明らかにしています。                            (イソップ寓話集 岩波文庫 山本光雄訳)
原典では、犬自らが、首輪に繋がれていることの不幸を説いているのです。こうして、見てみますと、 仮に、ラ・フォンテーヌが、この寓話を、「節制の教訓」として書き直していたとしても、この寓話から 「気ままな生活態度を学」んだ、少女の感性を、絶賛せねばならないでしょう。この少女は、ルソーより も、本質を見抜く目を持っていたのは確かなのですから・・・。 2000年


以下、2013.9.27追加


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Shingeki no Kyojin 進撃の巨人 OP /

家畜の安寧
虚偽の繁栄
死せる餓狼の自由を!


参照 https://twitter.com/Seibaer_/status/330201026441388032


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