『統計数理研究所国民性調査委員会、意識の国際比較方法論委員会』と、いう研究機関が、
「アリとキリギリス」の国際比較を長年に亘って行い、その結果が、
『日本らしさの構造 林知己夫 著 東洋経済新報社 初版1996年1月25日』という本に纏め
られています。この本の概要については、次の書評が一番分かりやすいのと思いますのでご覧
下さい。
1996年 3月3日 朝日新聞朝刊 書評
評者・武部俊一
イソップ物語の「アリとセミ(キリギリス)」の話では、夏じゅう歌っていたセミまたはキリギリスが、冬
になってアリのところへ物ごいにやってくる。それにアリがどう対応するか。
「夏に歌っていたのなら冬には踊りなさいよ」
「さあ、えんりょなく たべて ください。 げんきになって、ことしの なつも、たのしい うたを きかせ
て もらいたいね」
この寓話の結末や教訓は、文禄版『伊曽保物語』、現代日本版、フランスのラ・フォンテーヌ版、ポ
ルトガル版、英語版などで、微妙に違う。その変容の面白さは、読んでお楽しみとして、本書で示され
る研究のねらいは、この話の結びについての好みを計量的に国際比較することにある。
「夏じゅう怠けていたのだから、困るのが当然だと追い返してしまう」か、「怠けていたのはいけないけ
れども、これからはちゃんと働くのですよといさめた上で、食べ物をわけてあげる」か、どちらが「自分
の気持ちにぴったりするか」を、日本人、ブラジル日系人、ハワイ日系人、米国人、英国人、ドイツ人、
オランダ人、フランス人、イタリア人を対象に調べた。
この結論は、すっきりとは割り切れない。国民性や民族の価値観が複雑にからんでいるらしいが、義
理人情や宗教観にまつわる回答との関連をみた分析では、欧米人と日本人、日本人と日系ブラジル
人の間の「心の構造」の差異が浮き彫りにされている。
著者は、一九五三年から文部省統計数理研究所が定期的に実施している国民性調査で中心的役割
を担ってきた研究者で、文化のような計りにくい対象を数量化する手法を開発した。
以下省略
拙者は、この書評に興味をそそられ、この本を手にしたのですが、読んでみるとどうも納得がいかない
ことばかりなのです。そこで、この研究に対しての疑問点などを提示していきたいと思います。
まず、イソップ寓話についての記述なのですが、林教授はこの本で次のように述べています。
……イソップの刊行本は数限りなくあり、収録もさまざまで翻訳というか翻案というべきか、いろいろある。
まことに、全貌を捕捉し難いものがあり、「イソップ物語」の本当の原本は何なのかについては判然としな
いようである。紀元前六世紀ごろのギリシアにいたといわれるイソップという人物についても異説がある。
寓話の成立についても紀元前二世紀ごろ、ラテン語でまとめられたものが始めであるというのが通説であ
るが、どういう経路で集められたものかはよく知られていないようである。 (下線を書き入れたのは拙者)
この下線の部分なのですが、いくらなんでも、"寓話"の成立が紀元前二世紀頃のはずがないので、これは、
"寓話集"の成立のことだと思うのですが、しかしそれにしても、ギリシアで生まれたイソップ寓話の最初の集
成が、ラテン語だったなどということが通説になっているとは思えません。
恐らくここで言われている、「ラテン語でまとめられた寓話集」とは、パエドルスのイソップ風寓話集(紀元前
1世紀頃というのが一般的)のことを指しているのだと思うのですが、パエドロスはこの寓話集の序で、
「私の材源はイソップだ。彼がこれなる寓話の実質を創作した、そして私がそれを六韻脚詩節の形式に仕上
げた。」
と述べています。そして、この材源のイソップとは、紀元前300年頃にデメトリオスが編集したイソップ寓話集
であるというのが、通説になっているようです。 (イソップ寓話 その伝承と変容 小堀桂一郎 中公新書)
現在このパイドロスの寓話集は、「叢書アレクサンドリア図書館] イソップ風寓話集 岩谷智訳 国土社」
で完訳されています。
『日本人らしさの構造』という本は、題名からも分かる通り、イソップ寓話そのものを研究した書物ではありま
せんので、イソップ寓話について、詳細を欠いていたからと言って、責められるべきものではないとは思いま
すが、しかし次は、この研究の基となるものですので、最大限の注意が払われなければならない箇所だと思
います。
まず、問題となっている「セミとアリ」の話からみてみよう。
或る冬の半に蟻ども数多穴より五穀を出いて日に曝し、風に吹かするを蝉が来てこれを貰う
た、蟻の云ふは、「御邉は過ぎた夏秋は何事を営まれたぞ」蝉の云ふは「夏と秋の間には吟曲に
取紛れて、少しも暇を得なんだに由て、何たる営みもせなんだ」と云ふ。蟻「げにげにその分ぢ
や、夏秋歌ひ遊ばれた如く、今も秘曲を尽されてよからうず」とて、散々に嘲り少しの食を取ら
せて戻いた。
下心
人は力の尽きぬ中に、未来の努めをすることが肝要ぢや、少しの力と、閑有る時、慰みを事と
せう者は必ず後に難を受けいでは叶ふまい。
これは、新村出著『文禄旧訳伊曽保物語』(開成館、明治四四年)からの翻刻である。後に岩波文
庫に収録され、『伊曽保物語』(新村出、昭和一四年)として挿絵なしの文章のみで刊行されている。
図2−1 文禄版『伊曽保物語』 図2−2 文禄版『伊曽保物語』の表紙
(翻刻, 岩波文庫より)
これの元になっている文禄ローマ字本は一五九三年に刊行されている(俗に天草本といわれている)。
ここでこの話をもち出すのは、「はじめに」でも触れたが、平川祐弘東京大学教授の論文がきっかけ
となっている。同氏は『イソップ物語』の日本的改竄について注目すべき論文を発表された。その論文
は『諸君』昭和五二年四---五月号に掲載された「イソップ物語・比較倫理の試み」前後である。私は、
これに強い衝撃を受けた。とくに、後編の「セミとアリ」の話にである。ラ・フォンテーヌ寓話第一巻巻頭
の文が紹介されたあと前記の天草本『伊曽保物語』があげられている。 以下省略
この記述そのものには何ら誤りはないようです。しかし、誤りがないからといって、事実を正しく伝えてい
るか? と言えばそれは別問題です。 林教授は、
これは、新村出著『文禄旧訳伊曽保物語』(開成館、明治四四年)からの翻刻である。後に岩波文
庫に収録され、『伊曽保物語』(新村出、昭和一四年)として挿絵なしの文章のみで刊行されている。
と、述べているのですが、恐らくこの文を読んだ人は、文禄旧訳『伊曽保物語』には、本来挿し絵があった
のだが、岩波文庫に収録される際に省かれた。と、考えるのではないでしょうか?
しかし、文禄旧訳『伊曽保物語』には元来挿し絵などないのです。それでは、(図2−1)の絵は何なのか?
と言いますと、実はこの絵は、新村出が、文禄旧訳『伊曽保物語』に、萬治版『伊曽保物語』の絵を後か付
け加えたものなのです。・・・・・・このような説明では余計混乱すると思いますので順を追って説明致します。
・文禄旧訳(天草本)『伊曽保物語』=『イソポのハブラス』 (文禄2年 1593年)
天草のコレジヨ(大学)で、宣教師らの手によって印刷される。これはローマ字で書かれた口語文で、
ヨーロッパから持ち込まれたグーテンベルク式の活字印刷技術による。現在大英博物館に一冊だけ
保管されている。
・古活字版「伊曽保物語」(慶長・元和 1596-1642年頃)
京都で出版される。これは漢字仮名交じりで書かれた、文語文で、秀吉が朝鮮に出兵した際に、朝鮮
から持ち帰った高麗版の活字印刷技術による。現在九種の版が確認されている。
(この時点では、どちらの版にも挿し絵はついていない)
・萬治版「伊曽保物語」 (萬治2年 1659年)、古活字版を基に、絵入り整版が出版される。
以上の流れが考えられるのですが、文禄旧訳「伊曽保物語(天草本)」は、キリスト教の弾圧に伴い姿を消
してしまい、江戸時代にはその存在すら忘れられていたようです。
それから時代が下って明治21年、この本が、大英博物館に所蔵されていることを、アーネスト・サトウが、
「THE JESUIT MISSION PRESS IN JAPAN」誌に発表すると、新村出がロンドンへ出かけて行って、これを
手写し、ローマ字を漢字仮名交じり文に翻して、明治四十三年『芸文』に発表したのです。
そして、この漢字仮名交じりに翻した文に、萬治版『伊曽保物語』の挿し絵を、付け加えて本にしたのが、
(開成館)版の『伊曽保物語』なのです。
(図2−1)をもう一度よく見て下さい。活字が潰れていて分かりにくいかもしれませんが、挿し絵のすぐ下に、
(繪挿版治萬語物保曾伊)と書かれているのが分かるでしょうか?
注:(右から左に向かって読む。「日本らしさの構造」本誌でも同じ程度に活字が潰れている。)
このように、「開成館」版とは、「天草本」と「萬治本」のいわばハイブリッド版であるのです。ですから、岩波文庫
で、挿し絵が省かれたのは、ある意味で、基のあるべき姿に戻ったということになるのです。
本来このような紛らわしい(開成館版)を資料として用いるべきではないのです。仮に使うとしても、この絵は萬
治本から流用されているということをきちんと説明しなければならないはずです。
(学術的には、『吉利支丹文学集』(日本古典全書、朝日新聞社)新村出・柊源一校註)という素晴らしい本があ
ります。現在、平凡社の東洋文庫で復刻されており容易に手に入ります。)
拙者がこの点について、なぜこんなにこだわるかというと、それには理由があるのです。実は、文禄版(天草版)
の「セミとアリ」の話と、古活字版や萬治版の話とでは、結末が全く違っているのです。
去程に、春過、夏たけ、秋もふかくて、冬のころにもなりしかば、日のうらうらなるとき、あり、 あなよりはひ出、
えじきをほしなどす。せみ、きたつて、あり申は、「あないみじのありどのや、 かかるふゆざれまでも、さやうに
ゆたかに、えじきをもたせ給ふものかな。われにすこしのえじ きをたび給へ」と申ければ、あり答云、「御辺は、
春あきのいとなみには、なに事をかし給ひけ るぞ」といへば、せみ答云、「なつあき身のいとなみとては、木末
にこたふばかりなり。そのを んぎよくにとりみだし、ひまなきままにくらし候」といへば、あり申けるは、「今とても、
などうたひ給はぬぞ。うたひちやうじてはつゐにまひとこそは、うけたまはれ。いやしきえじきをも とめて、何に
かはしたまふべき」とて、あなに入ぬ。そのごとく、人の世にある事も、我力におよばんほどは、たしかに世の事
をもいとなむべし。ゆたかなる時、つづまやかにせざる人は、ま づしうしてのち、くゆる物なり。さかんなるとき、
がくせざれば、老て後、くゆるものなり、ゑひのうちに、みだれぬれば、さめての後侮る物なり。返々も是を思へ。
(古活字版 伊曽保物語 勉誠社 参照)
この話を見れば分かる通り、この結末は、
「今はなぜ、お歌いにならないのですか? 歌に長じて舞い踊ればよろしいのに、卑しい餌食を求めるとは、い
ったいどうなさったというのですか?」 と言って、穴の中に入った。(読解hanamaですので、間違っていたらお教え下さい)
という具合に、蟻は蝉に食べ物など分けてやらないのです。そしてこの話が、江戸時代に、広く一般に流布して
いた話なのです。
先ほども言いましたように、文禄版(天草版)『伊曽保物語』は、キリスト教弾圧により姿を消してしまいますし、
それに、ローマ字で書かれた本など、当時、誰が読めたというのでしょうか? これを読むことのできたのは、
ごく限られた一握りの人だったのです。
以上の点を考え合わせて、もう一度、読み直してみますと、どうも林教授は故意にこれらの点について、ぼか
しているのではないかと思えるのです。
次は、ある日本思想史学の専門家の論文です。
Eイソップ物語――共同体的価値観で教訓を書き換えて翻訳 (初稿1997年)
子供の読書というと絵本の類いがあげられるが、それが子供の倫理・道徳的
にどのような教育効果があるか、余り考えられていないようである。倫理・道
徳教育というと大袈裟であるが、簡単にいうと、社会の1員として、やっては
ならないこと、やってよいこと、親子の関係、隣人との関係など、基本的に知
っておかなければならないことを教え込むことである。
江戸時代初期には、すでに寓話を絵本形式にした書籍があり、子供の倫理・
道徳教育について考えられていた。江戸時代に絵本とは意外だが、事実である。
たとえ、一般には知られていないが、『イソップ物語』の絵入本がある。
・・・・中省略
1591年、島原半島の南端・口之津の港に近い加津佐に置かれたコレジオに印
刷機が据えられ、イエズス会による出版事業すなわちキリシタン版の刊行が始
まったのである。印刷機はその翌年に天草島のコレジオに移され、口語訳日本
語ローマ字本『平家物語』(抄本)の印刷が始められている。さらに1593年、
『イソポのハブラス』『金句集』の印刷が成り、『平家物語』と合冊製本され
て世に出た。
これとは別に、文語・国字の『伊曽保物語』は、慶長末年〜元和(1610年代
〜1623)の頃に成立・刊行され、万治年間(1658〜60)には絵入整版本となっ
て仮名草子本(岩波版日本古典文学大系『仮名草子集』に収録)の1種として
知られている。
ここで、『蝉(せみ)と蟻(あり)の話』を例にとってみよう。ただし、ラ
テン語版から翻訳されたドイツ語版・英語版は、「蝉」のいない地域であるの
で「きりぎりす」に変更されているので『ありときりぎりす』でもよい。
原文の筋書きは次のようになっている。
[冬の季節に蟻たちが濡れた食糧を乾かしていました。蝉が飢えて彼らに食物
を求めました。蟻たちは彼に「なぜ夏にあなたも食糧を集めなかったのですか」
と言いました。すると、彼は「暇が無かったんだよ、調子よく歌っていたんだ
よ」と言いました。★
すると彼らはあざ笑って「いや、夏の季節に笛を吹いていたのなら、冬には
踊りなさい」と言いました。この物語は、苦痛や危険に遇わぬためには、人は
あらゆることにおいて不用意であってはならないということを明らかにしてい
ます。](岩波文庫)
ところが、キリシタン版『イソポのハブラス』は次のようになっている。
[(★まで筋書き同じ)散々に罵(ののし)り少しの食を取らせて戻(もど)
いた。
下心(=教訓)
人は力の尽きぬ中(うち)に、未来のつとめをすることが肝要ぢや、少しの
力と、暇(ひま)有る時、慰みを事とせう者は必ず後に難を受けいでは叶(か
な)ふまい。]
「下心」が書き換えられているのが特徴である。下心すなわちこの寓話が教え
る教訓は、個人の責任重視であるから、夏に遊んでいて冬に食物が無くなった
セミは、自分の責任なので飢え死にするわけである。ヨーロッパ人的倫理観で
は、「チャンスがありながら準備を怠った個人の責任を厳しく問う」というこ
とになる。だが日本では、日本人的倫理観にしたがって書き換え、「集団・共
同体の中での助け合い」が重視され、個人の責任追及は厳しくない。たかが食
物をちょっと分け与えるか与えないかだけじゃないか、などと思うなかれ。
原著の大事な部分を書き換えてまて日本の実情に合わせている。『イソップ
物語』を単なる寓話と考えてはならない。2000年を越えるイソップの歴史は、
文化史的・思想史的・文化史的歴史である。しかし、それはヨーロッパに限定
されたものではない。
『イソップ物語』を始めとする子供用絵本が江戸時代から読まれていたとい
う事実は、子供の教育にとって絵本が重要であることを、われわれに教えてく
れるものである。たかが江戸時代とは言えない。そして、原著に反しての書き
換えは、日本人の倫理・道徳観の基本がヨーロッパ人のそれと異なっているこ
とを示しているのである。
◎挿入図:絵入本『伊曽保物語』「アリとセミ」の図
細かな点はここでは問わぬことにします。とにかくこの論文の最大の問題点は、江戸時代に読
まれていた話が、天草本と同じ内容だったと勘違いされている点です。しかし、実際に江戸時代
に読まれていた絵入り本は、原典と同じ内容のものだったのですから、この論文の論理展開から
しますと、
日本人の倫理・道徳観の基本はヨーロッパ人のそれと同じであることを示している。
という結論が導かれることになってしまうのです。
この論文が、「日本らしさの構造」を基に書かれたのかどうかは分かりませんが、しかし、先の
記述を読めば、大抵の人は、この論文と同じような誤解をしてしまうのではないでしょうか?
ところで、古活字・万治本系の「アリとセミ」の話は、それからおよそ200年後、天保15年元旦
(1844)に出版された、「絵入教訓近道」にも収められています。
蟻とせミのはなし
頃は冬の初めにて、日向欲しき時分なりしが、ある日、蟻、穴よりいでゝ、貯への餌食を干してゐるところへ、あ
なたの木の枝より、セミひとつ、とびきたつて、アリに向かひ、さてさてそのもとは、冬枯れの時分まで、餌食のた
くさんあるは、まことに羨ましいことなり。我にも少し、分けて下さらぬか、と言へば、アリ、答へて云ふやう、セミ殿
には、春夏の営みには、何事をなさるゝや、と云えば、セミ、答へて、夏の秋の営みとては、たゞ木のうらに、唄ひ
暮らすばかりなれども、世のセミに劣らじと、音曲にのみ遊びゐるゆゑ、他に営みとてもなし、と云へば、アリ、答
へて、さらば今とても、唄ひ給はぬぞ。餌食を分けてくれよなどゝは、余りに卑しくて、セミ殿のはじめに唄ひ暮らさ
れしにも、似合はぬことなり、と云ふて、穴に入りぬ。そのごとく、人の世にあることも、我が力の及ぶほどは、世
のことを営むべきなり。その身豊かなるとき、慎まやかにして暮らさねば、貧しうなりてくゆるとも、セミの餌食なき
に、かわることなし
絵入教訓近道 参照
このように、200年たっても、話の内容は全く変わっていないのです。
それでは最後に、林教授が衝撃を受け研究のきっかけとなったという・・・・・現在の「アリとキリギリス」の比較文化
論の礎ともなっている、平川祐弘教授の論文を見てみたいと思います。
(天草版の「蝉と、蟻との事」が書かれている) 省略
西洋でも「蝉と蟻」の寓話で、蝉の背後にイメージされている人間はしばしば詩人であり音楽家であるが、この
文禄年間の日本版で蝉の背後にイメージされている人間も「吟曲」とか「秘曲」とかいう芸事にうきみを窶した人
の姿である。おそらく零落した公卿の姿ででもあろうか。
「吟曲にとり紛れて」
と釈明する蝉に対し、蟻は、
「今も秘曲を尽されてよからうず」
と皮肉で応じた。その訳者の言葉さばきの巧みさには恐れいるばかりである。なお徳川時代に流布した古活字
本のこの条りの訳も達者なもので、蟻は、
「今とてもなど歌ひ給はぬぞ。謡長じて終に舞とこそ承れ。いやしき餌食を求めて、何にかはし玉ふべき」
と厭味な敬語で挨拶を述べている。農民である蟻が都会の遊び人にたいして嘲ることは洋の東西変りないの
である。しかし天草本の、
「少しの食を取らせて戻いた」
という結びは、フランス版の、
「ええそれでは今度はダンスでも踊ったらいかがです?」
"Eh bien! dansez maintenant."
とは趣を異にする。ラ・フォンテーヌの蟻の口調は激しい動きを含み(鼻母音も多い)、相手を突き放している。し
かもこのフランス語版に限らず、ギリシャ語原話でもラテン訳でも、英米で行われた多くの版でも、蟻はいたって冷
たい。夏中遊んでいた蝉に対しては、自業自得といおうか、同情の余地はまったくないことになっている。
(東の橘 西のオレンジ 平川祐弘 文藝春秋社 「諸君の論文が収められている」)
この平川教授の論文では、古活字版についても言及されているのですが、どういうわけか結末には触れられるこ
とはなく、天草本の「少しの食を取らせて戻いた」という結末ばかりが取りざたされ、ラ・フォンテーヌ版や原話との
違いが強調されています。
こうしてみますと、この一連の論文の変容は、天草本の『蝉と蟻の事。』の日本的変容などよりも、凄まじいものの
ように思えます。
「平川論文」 ----天草版と古活字版、両方の記述はあるが、その結末については、天草版のみが強調され、
古活字版の結末については言及されていない。
「林論文」・「湯沢論文」---古活字版(万治版)についての記述が抜け落ちている。
「最終段階」 ---万治版の結末と天草版の結末が混同される。
参照リンク 共立女子短期大学 絵入り教訓近道
後記
今回この章で取り上げた事柄は、内容的には、特に専門的な知識など必要としない問題です。「セミとアリ」の結末
の違いについても、(イソップ寓話 その伝承と変容 小堀桂一郎 中公新書 昭和53年)に於いて、
天草版、古活字版、原典(シャンブリ版)、ラ・フォンテーヌ版のそれぞれの話が列記され、比較検討されています。
当然のことですが、そこには、天草版と古活字版の結末の違いについても明記されています。 そして、
「日本らしさの構造P36」には、小堀教授のこの本が参考にされている旨が述べられているのです。