「セミとアリ」と「アリとカブトムシ」


 アリとキリギリスの話には、食べ物をやる話と、食べ物をやらない話と、もう一つ、この中間型とも言 える話がある。 例えば、南家こうじ ひかりのくに、『イソップものがたり原作版アニメ名作絵本 5』では次のような 結末になっている。

「おなかが すいて しにそうです。 ありさん、なにか たべものを めぐんでください」

 ありたちの いえの なかは、じめんの したで あたたかく、なつの あいだにためた たべものが

 いっぱい ありました。

「きりぎりすさん わかったでしょう。あなたが あそんでいる あいだ、ぼくたちがいっしょうけんめ

い はたらいていた わけがね」

きりぎりすは、さきのことをかんがえなかったので こんなことに なったのです。


 この結末からは、キリギリスが食べ物をもらえたかどうかは、分からない。挿し絵を見ると、ドアから

顔を覗かせたキリギリスが、両手を組んで懇願している。アリたちはというと、一匹は手招きしているよ

うであり、一匹はにらんでいるようであり、一匹は困った顔をしているようである。というようにこれま

た非常に曖昧になっている。これも原典からすると、いかにも日本的な変容で、「曖昧さを好む日本人」

というようなタイトルが浮かんできそうだが、しかし、実はイソップ寓話の原典にもこのような話がある

のだ。


  二四一 蟻と甲虫

 夏の季節に蟻が田畑を歩き廻って小麦や大麦を拾い集めて、冬の自分の食物に蓄えていました。と、甲

虫が蟻の大変勤勉なのを見て、他の動物たちは仕事をやめて呑気に過ごしているちょうどその折りにえら

く精が出るんだね、と驚きました。その時には蟻は黙っていました。しかし後で冬が来た時に牛の糞が大

雨に溶かされたので、甲虫は飢えて食物のお裾分けを願いに彼のところへ参りました。と、蟻は甲虫に

「ねえ、甲虫さん、私が精を出し、あなたがその私を非難した時に、あなたが働いていたら、今食物にこ

と欠くことはないんでしょうがね。」と言いました。

 こういう風に、盛んな折に将来のことを予め考えない人々は時節が変わった折にひどく不幸な目に遇う

ものです。 (山本光雄 岩波文庫 イソップ寓話集)

 この結末からだけでは、この後、蟻は甲虫に食べ物を分け与えたかどうか判然としない。この話からす

れば、南家氏の話が日本的変容とばかりは一概には言えないだろう。

実際「アリとキリギリス」の代わりに、「蟻と甲虫」を収録しているイソップ物語も数点見られる。

 ところで、なぜイソップ寓話集には、このように似た話が収録されているのだろうか。イソップ寓話集

の中には、話の内容が同じで、同一の教訓を導くというような話は散見できる。しかし、これほどまでに

似た話は他にはない。そこで、なぜ、このように似た話が収録されたのかを考えてみたいと思う。両者を

詳しく比較するために、山本氏のテキストで両者を比較してみたい。



  三三六 蝉と蟻たち

冬の季節に蟻たちが濡れた食糧を乾かしていました。蝉が飢えて彼らに食物を求めました。蟻たちは彼に

「なぜ夏にあなたも食糧を集めなかったのですか。」と言いました。と、彼は「暇が無かったんだよ、調

子よく歌っていたんだよ。」と言いました。すると彼らはあざ笑って「いや、夏の季節に笛を吹いていた

のなら、冬には踊りなさい。」と言いました。

 この物語は、苦痛や危険に遇わぬためには、人はあらゆることにおいて不用意ではあってはならない、

ということを明らかにしています。

 両者の異なる点をざっと上げてみると、まず、『蟻と甲虫』では、夏の記述から始まっているのに対し

て、『蝉と蟻たち』では、いきりな冬の記述から始まっている。二点目は前者では「蟻」は一匹として登

場しているのに、後者では集団として登場している。そして、これが一番重要と思われるのだが、両者の

結末が違っている。前者では曖昧な形で終わっているが、後者ではキッパリと拒絶している。

 もう少し細かく見てみると、両者はそれぞれ別個に作られたというよりも、連作ではないかと思われる

節がある。『蟻と甲虫』の中には、「・・・冬が来た時に牛の糞が大雨に溶かされたので」という記述が

あるが、『蝉と蟻たち』では、「冬の季節に蟻たちが濡れた食糧を乾かしていました・・・」という記述

で始まっている。これを少し整理してみると次のようになるのではないだろうか。


・・・大雨が何日も続いたので、甲虫の餌である牛の糞が雨で溶けて流れだしてしまい、甲虫は飢えてし

まいました。蟻の餌は、大麦や小麦ですから、濡れても溶けてなくなってしまうことはありません。そこ

で、甲虫は蟻の元へお裾分けを願い出ました。(甲虫が餌を分けてもらえたかどうかは不明)

 それからしばらくして、天気がよくなり、蟻が食糧を干していると、今度は蝉がやって来ました。

 このように考えれば『蝉と蟻たち』では、なぜ冬の記述からいきなり始まっているのかの説明にもなる。

かなり強引な推測でこじつけと言われても仕方がないが、これを連作とは言わないまでも、『蟻と甲虫』

という話が基にあり、その後『蝉と蟻たち』が作られたと解釈することはできるのではないだろうか。す

ると、ここでまた、最初の疑問に戻ってしまうのだが、なぜ同じ内容のものをわざわざ作ったのだろうか?

 そこで、両者の話の構造について見てみたいと思う。

 
 何らかの理由により、懲らしめられる。という話を見てみると、大きく分けて二つの型に分類できる。

一つは、「争った相手に懲らしめられる」という型、もう一つは、「絶対的な力により懲らしめられる」

という型である。

前者の型を見てみると、次のような話が上げられる。



  一二一  ゼウスとアポルロン

 ゼウスとアポルロンが弓術のことでいい争っていられました。アポルロンが弓を張って矢をお放ちにな

ると、ゼウスはアポルロンが射ただけの距離を一跨ぎでお歩きになりました。

 こういう風に、優れた人々と競争する人々は彼らに及び得ないばかりか、もの笑いをも招くものです。


 次に、絶対的な力により懲らしめられる話を見てみる。


   一四六 駱駝とゼウス

 或る駱駝は牛が自分の角を自慢しているのを見ると、彼を羨ましがって、自分でも同じものを手に入れ

ようと望みました。と、ゼウスは駱駝に対して、彼が身体の大きいことや力の強いことに満足しないで、

余計なものまで欲しがるのを怒られて、彼に角をくっつけておやりにならなかったばかりか、耳の一部を

もぎ取りさえなりました。

 こういう風に、多くの人々は欲張りのために他人をねたましがって知らず識らず自分のものまで失うの

です。

 この話は欲張りな駱駝が、ゼウスの絶対的な力により懲らしめられるという話であるが、前出の、『ゼ

ウスとアポルロン』でも、アポルロンは絶対的なゼウスの力の前では勝負にならないほどの負けかたをす

るのだが、しかしこの場合、アポルロンは、ゼウスと直接争っているのである。ところが、駱駝の場合は、

ゼウスと争うなどという立場にはない。ゼウスは駱駝とは全く別の高い次元にいて罰を与えているのだ。

このことを前提にして次の話を見てみたい。



  一五六 キタラ琴弾き

 或る天分のないキタラ琴弾きが白壁の家の中で始終歌ったものですが、その声が彼に反響してくるので、

自分は非常にいい声だと信じました。ところで、彼はこのことに得意になって、一つ劇場に出なければな

らぬと思いました。しかし舞台に出て歌うと大変まずかったので、石を投げつけられて追っ払われました。

 このように弁論家たちのうちにも、学校では一かどのものと思われているが、国事についてみて、一文

の値打もない者だということを曝け出す人々があるものです。

 自分の実力を過大評価したキタラ琴弾きが劇場に出て、観衆に石を投げつけられるわけだが、この時、

観衆は、キタラ琴弾きに対してどのような評価でも下せる立場にある。つまり、観衆はキタラ琴弾きに対

して、絶対的な力を持っているのだ。お客様は神様です。というところだろうか。

 この絶対的な力に懲らしめられるという話には、背徳的な者と道徳的な者とがあり、背徳的な者は絶対

的な力により懲らしめられる(この場合道徳的な者は、絶対的な力により利益を得る場合もある)という

ような話も含まれる。日本では『金の斧、銀の斧』として有名な『樵夫とヘルメス』を見てみよう。



  二五三 樵夫とヘルメス

 或る人が河の縁で木を倒していて、自分の斧をとばしました。そこで途方にくれ、堤防に坐って泣いて

いました。と、ヘルメスがその理由をお知りになって、その男を可哀そうに思われ、河の中にもぐって金

の斧を持って上っておいでになり、これがお前の失くしたものかとお尋ねになりました。しかしその男は

それではありませんと答えましたので、再びもぐって銀のを持っておいでになりました。しかしその男は

自分のはそれでもありませんと言いましたので、三度もぐって彼自身のを持っておいでになりました。そ

の男は失くしたのは本当にこれですと言いましたので、ヘルメスは彼の心の正しいのをお喜びになって、

彼に斧を皆お与えになりました。彼が仲間たちのところへ行ってその出来事を詳しく彼らに話しました。

彼らのうちの或る一人の男が同じことをしとげようと決心して、河の縁へ行き、自分の斧を故意と流れの

なかに投げ込んで泣きながら坐っていました。すると、ヘルメスがその男にお現れになって、その嘆きの

理由をお知りになると、もぐって同じように金の斧を持って出ておいでになりまして、これを投げとばし

たのかとお尋ねになりました。その男は喜んで「はい、本当にそ奴です。」と言いましたので、神様はそ

れほど図々しさをお憎みになって、その金のを取っておかれたばかりか、彼自身のさえもお与えになりま

せんでした。

 この物語の明らかにしているのは、神が正しい人々に援助をなさる分だけ不正な人々には反対なさる、

ということなのです。

 この話は、正直な樵夫は、自分の斧ばかりか、金と銀の斧まで手に入れるのに対して、ずるい樵夫は、

金と銀の斧を手に入れるどころか、自分の斧まで失うことになるのだが、両者を裁いているのは、絶対的

な力を持つヘルメスである。更に次の話を見てみる。



  一四三 葦とオリーブ

 葦とオリーブが忍耐、力、不動ということで言い争っていました。葦はオリーブに、力がなくてどんな

風にでもすぐなびくと悪口をつかれましたが、口を緘じて答えませんでした。その後しばらくして強い風

が吹いた時に、葦は風に吹き曲げられ、なびかされて容易く助かりました。しかしオリーブは風に逆らっ

ていましたから、その烈しい力によって吹き折られました。

 この物語は、時節や自分より優れた者は自分より強いものと争う者より優れている、ということを明ら

かにしています。

 この教訓が、我々の道徳観と照らし合わせてどうか? という点はともかく、ここでは、傲慢で背徳的

なオリーブと、優れた者には逆らわない道徳的な葦があり、背徳的なオリーブは、絶対的な力である強風

に、吹き折られてしまうという罰を受ける。ここで重要なのは、オリーブを懲らしめているのが、道徳的

な葦ではなく、両者の力を超越した絶対的な力である強風であるということだ。そしてこの強風は何らか

の意志を持っているわけではない。つまり、絶対的な力とは、罰を与える者に対して絶対的な力を持って

いれば、それがどのような性格であってもよいわけで、無人格は勿論のこと、場合によっては悪であって

も許される。日本の「こぶとりじいさん」などは、鬼がこの役割を勤めている。

 さて、それでは『蟻と甲虫』や『蝉と蟻たち』がどのような型に属しているのか見てみたいと思う。ま

ず、『蟻と甲虫』から見てみることにする。この話は、夏の季節に働いて冬の備えをしている道徳的な蟻

と、夏には仕事をやめて呑気に過ごしている背徳的な甲虫があり、背徳的な甲虫は、絶対的な力の冬によ

り、懲らしめられるという話であるということになる。しかし、この場合その後、甲虫は蟻にお裾分けを

願い、

「ねえ、甲虫さん、私が精を出し、あなたがその私を非難した時に、あなたが働いていたら、今食物にこ

と欠くことはないんでしょうがね。」

 と、皮肉を言われている。これは、夏の時に、甲虫が蟻を冷やかしたことへのお返し(復讐)であると

いえるかも知れないが、このように、皮肉を言ってお返しをするという話が他にもあるので見てみたい。



   九二 牝の仔牛と牡牛

 ある牝の仔牛が牡牛の働いているのを見、その骨折りを思って彼を憐れみました。しかしお祭礼がやっ

て来たと時に、人々は牡牛を放して、牝の仔牛を犠牲に捧げるために捕えました。牡牛はこれを見ると、

笑って彼女に言いました。「ねえ、仔牛さん、やがてお前さんが犠牲に捧げられる筈だったから、それで

お前さんは仕事をせずにいられたんだよ。」

 この物語は、危険こそ怠け者を待ち受けているものだ、ということを明らかにしています。

 この場合、牡牛の立場は、蟻の立場とは違うが、最後に皮肉を言って終わっているという点は同じであ

る。そして本来この部分はなくともこの話は成立する。この話の基本は、「怠け者の牝の仔牛」と「働き

者の牡牛」があり、絶対的な力である、お祭礼により、怠け者は犠牲として捕らえられ、働き者は放たれ

るということで、最後に牡牛が皮肉を言っている部分は、あってもなくても、この話の根幹には何の影響

もない。

『蟻と甲虫』でも、甲虫を懲らしめているのは、あくまでも冬という季節であって、蟻ではない。

 次に『蝉と蟻たち』を見てみる。ここで注目したいのは、「蝉」と「蟻」との関係である。この場合、

『蟻と甲虫』の話のように前半の夏の部分はなく、いきなり冬の場面から始まっている。そして飢えて助

けを求めてきた蝉に対して、

「なぜ夏にあなたも食糧を集めなかったのですか。」

 と、問い質している。これは正に、神が審判を下そうと審査をしているという図である。そして蝉の

「暇が無かったんだよ、調子よく歌っていたんだよ。」という弁明に対して、「いや、夏の季節に笛を吹

いていたなら、冬には踊りなさい。」と審判を下しているのである。つまり「蟻」と「蝉」との関係は、

道徳的な者と背徳的な者というような関係にはなく、「駱駝」と「ゼウス」や「キタラ琴弾き」と「観衆」

というように、「背徳者」と「絶対的な力を持つ者」というような関係になっているのである。

 結局、『蝉と蟻たち』という話は、怠け者の蝉が、絶対的な力を持つ蟻たちに、懲らしめられるという

話ということである。

 当然のことだが、ここで蟻は、実際には神の役割を担っているわけではない。また、蟻の言動からする

と、善良な市民というわけでもないようだ。恐らくこの場合、蟻たちは、「世間の冷たさの象徴」という

ような役割を担っているのではないだろうか。

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