(1)論文の基本的な誤り

この論文を基に話を進める前に、まず、この論文に見られる、いくつかの誤りに ついて、指摘しておきたいと思います。
題名と、寓話の配列について 湯沢教授は、天草本の「イソポのハブラス」について、 『この本の巻頭を飾るのが、有名な「蝉(せみ)と蟻(あり)」のお話です』 と、仰っているのですが、この題名は正しくは、「蝉と、蟻との事。」となっております。もちろんこ れは、ローマ字で書かれたものを、読みやすいようにと、便宜上、漢字仮名交じりに翻しただけのこと であって、実際は、「Xemito , aritono coto .」と、なっております。ですから、「蝉」や「蟻」 に、わざわざ、( )つきの振り仮名を入れるくらいなら、最初から平仮名やカタカナで書いた方が、 よほど正確だとも言えます。まあ、これは、朝日新聞の校正上の都合によるものかも知れません。  また、湯沢教授はこの話を、「この本の巻頭を飾る」と仰っているのですが、 まず、天草本の「イソポのハブラス」について少し説明しますと、この本は、上・下巻に分かれていお り、上巻は更に、イソップの伝記とも言える、「イソポが生涯の物語略。」という章と、イソップ寓話 25編が収められた、「イソポが作り物語の抜き書き。」という二つの章から構成されています。   そして下巻は、寓話の続き45編が収められた、「イソポが作り物語の下巻。」となっております。 当然のことなのですが、この本の巻頭を飾っているのは、寓話ではなく、イソップの伝記ということに なります。  それでは、寓話の部分だけに限ってみてはどうかと言いますと、上巻の第一番目の寓話は、「狼と、 羊の譬への事。」という話ですし、下巻の巻頭を飾っているのも、「鶏と、下女の事。」という話で、 実は、「蝉と、蟻の事。」は、上巻の23番目に収められている話なのです。
活字印刷機の伝搬と、天草版について 引用が前後するのですが、湯沢教授は、この天草版の「イソポのハブラス」について、 『イエズス会宣教師ヴァリニャーノが伝えた活字印刷機による天草版で七種作 られましたが、その一冊目がこれでした。何部刷られたのか分かりませんが、 世界にただ一部、大英博物館に残されています。』 と、仰っていますが、まず、活字印刷機を伝えたのが、ヴァリニャーノか? と、いう疑問があります。 確かに、百科事典などにも、活字印刷を伝えたのはヴァリニャーノである。というような記述が見られ ることがあるのですが、しかし、どうやら実際に、活字印刷機械を南蛮から持ち込んだのは、九州三大 名が派遣した、天正遣欧少年使節の一行であったようです。  もちろん、ヴァリニャーノが全く関与していなかったという訳ではなく、そもそも、印刷機械の導入 を計画したのは、ヴァリニャーノその人であったそうです。  実は、ヴァリニャーノは、少年使節を伴って、彼の地へ向かうはずだったのですが、途中インドに立 ち寄った際に、インドの管区長の任に就き、一行と分かれることになります。その後、少年使節は帰国 の際にも、インドに立ち寄るのですが、この時、ヴァリニャーノは、インド使節として、一行と共に日 本にやってきたということですから、ヴァリニャーノが活字印刷を伝えたというのも、あながち誤りと は言えないかもしれません。  しかし、この活字印刷機により、「天草版で七種作られた」と、いうのには、首を傾げてしまいます。 筆者の知る限り、天草版「イソポのハブラス」が7種作られたという事実は全くありません。  そもそも、天草版の存在は、江戸時代に入ると、忘れ去られ、明治になって、アーネスト・サトウが、 「THE JESUT MISSION PRESS IN JAPAN」で、発表するまで、その存在すらほとんど知られていませ んでした。その後、新村出博士が、ロンドンでこれを手写しして、1910年に「芸文」誌上に発表す るのですが、もし、天草版が7種作られたということが事実だとするならば、これは世紀の大発見とい うことになるかもしれません。  しかし、その可能性はあまりないように思えます。恐らくここには、天草版「イソポのハブラス」と、 古活字版「伊曽保物語」との混同があるものと思われます。実は、一般に、古活字版「伊曽保物語」に は、7種の版があると言われています。(7種プラス2種で9種類というのが現在では一般的)恐らく 湯沢教授は、これに基づいて、天草版を7種とされたのではないかと思われます。  ちなみに、古活字版「伊曽保物語」は、上・中・下の三巻から成り、上巻は、「イソップの伝記」が 収められており、中巻は、「イソップの伝記」の続きと、寓話31編から成り、下巻は、寓話34編が 収められています。そして、「蟻と蝉の事」(イソポのハブラスとは題名が微妙に違う)は、下巻の第 一番目に収められています。しかし、下巻の巻頭を飾っているからと言って、「この本の巻頭を飾る」 とは、普通言わないと思いますので、一体これは、どうしたことか?   
戻る

inserted by FC2 system