大人が読まなければならない「グリム童話」

 

近頃はグリム童話が人気のようで、本屋へ行くと、グリム童話関連の本がうずたかく積まれています。

しかし、その殆どは、残酷性や性的描写を売り物にしているようです。もちろん、グリム童話には、そう

いった部分もあるでしょうが、しかしそれが全てというわけではありません。


グリム童話 KHM 78  お爺さんと息子と孫

 昔のことです。大変年を取ったお爺さんがいました。お爺さんは、目はかすみ、耳は遠くなり、膝はが

くがく震え、食事の時に、満足にスプンを持つことができずに、スープをテーブルクロスにこぼしたり、

口からこぼしたりするほどでした。お爺さんの息子とそのおかみさんは、これにうんざりして、とうと う、

年老いたお爺さんをストーブの後ろの隅っこに座らせて、粗末な陶器に食べ物をわけ、それも十分には

与えませんでした。お爺さんは、目に涙をいっぱいためて、テーブルを眺めていたものです。

 ある時、お爺さんの震える手は、器を持っていることが出来ずに、器は床に落ちて割れてしまいまし た。

若いおかみさんはお爺さんを叱りつけましたが、お爺さんは何も言わずに、溜息をつくばかりでした。そ

れから、息子夫婦はお爺さんに、やすものの木の器を買い与え、お爺さんはそれで食べなければならな

くなりました。

 ある日のこと、こんな風に皆が座っていると、4歳になる小さな孫が、床の上の木片を集めはじめまし た。

そこでなにをしているの? と父親が尋ねると、子供は、僕は小さなお鉢を作っているんだよ。僕が大き く

なったら、お父さんとお母さんに、これで食べさせてあげる。

夫婦は少しの間、互いに顔を見合わせていましたが、ついに泣き出しました。そして、年老いたお爺さん

をテーブルにつれていきました。それからは、いつでも皆と一緒に食べるようになり、お爺さんが、少し くら

いこぼしても、なにも言いませんでした。(不詳英訳を hanama訳)


この話には、下敷きになったと思われる話が存在します。それは、13世紀のイギリスの宗教家で、寓話 作家

のOdoという人の書いた(蒐集)した寓話集に収められている話なのですが、この話は、ペリーの編集 したイソ

ップ寓話集に収められています。



Odo of Cheriton  ペリー624 年老いた父親と酷たらしい息子

 
 その男には、年老いた父親がいたのだが、男は召使にこんなことを言った。

「いつも咳をして痰ばかり吐いているこの汚らしい奴は、我らの悩みの種だ。古い羊の皮にくるんで遠く へ

棄ててしまおう」

父親は、他に着るものも、暖まるものも何も無かったので、すぐに凍えて死んでしまった。
 
 この息子の子供、つまり、死んだ父親の孫にあたる小さな男の子が、古い羊の皮を手に取ると、壁にか

けていた。父親が不審に思って、その皮をどうするつもりかと子供に尋ねると、息子はこう答えた。

「お父さんが年老いた時のために、取っておくのです。お年寄りをどのように扱えばよいか、お父さん は、実

例を示してくれましたから」(ペリー英訳 hanama訳)


Odoは、蒐集した寓話を潤色して、日曜日の説教で聴衆に語って聞かせていたそうですが、それは、上 のような辛

辣な話が多く含まれています。グリム童話が、この話の直系なのかどうかは分かりませんが、この話の類 話である

ことは間違いないでしょう。

そして、この話には、日本にも類話があるのです。昔話タイプ・インデックス によれば 「410B  姥捨て山---もっこ

型」 に属する話です。(日本昔話通観  28 稲田浩二 同朋舎)


うばすて山 ---大分県直入郡---
 

 昔は年よりになって、何んも出けんようになると、もっこに入れて山へ棄てに行く時代があったんと。
 
 これもそん時代の話じゃけんど、あるところに婆さんがあった。子供と孫が婆さんをもっこに入れて、

山へ棄てに行きよった。そしたら婆さんがもっこの中から、草を丸めちゃ道に投げすてた。そんじゃき、

子供の人が「かかさん、かかさん。何しよるんな」とたずねた。そしたら「こりゃなあ、お前たちが帰る

とき、道をまちごうちゃいかんき、目標をおいちょくんじゃ」といったけれども、それはそのままにして 山

に行って婆さんをすててしまった。そしたら孫になる人が「お父っつぁん、お父っつぁん、こんもっこは も

っち帰ろうへ」「どうしちそげんこというな。もうこりゃいらんじゃねえな」といったそうだ。そしたら また孫

が「そげいうてん、またお前が年とったら棄てて来んならんきな」といった。そしたらお父っつぁんも、

「ああ、こりゃ俺がわるかった。年よりを棄てるとまた自分も棄てられんならん」と思って、また年より

婆さんを、つれて帰って大事にしたということである。(日本の昔ばなし3 関敬吾編 岩波文庫)


どうして、これほど似た話が、日本の昔話にあるのか私には分かりませんが、偶然同じ話が出来たという よりも、

何らかの繋がりがあるように思われます。そして、この話が、グリムの話よりも、Odoの話に近いとい うことも興味

深いと思います。これは、憶測に過ぎないのですが、Odoの話は、インドの説話の影響がかなり見られ ます。です

から、この話も元々はインドの説話だったのかもしれません。西に向かったインドの説話の行き着いた先 がグリム

童話で、東に向かって行き着いた先が日本の昔話ということになるのかもしれません。ですから、グリム 童話より

も、より原型を留めているOdoの話に、日本の昔話が似ているのかも知れません。

このような話は、時代や民族性などというものを超越して、現代の日本人が直面している問題をも言い表 している

と言えるのではないでしょうか?
 

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